恋人同士になった翌日。私と拓翔の関係は、以前とは明らかに違っていた。
お互いの呼び名も、言葉遣いも前より砕けた雰囲気になっている。『おはよう、紀子。今日もいい天気だね』
朝一番に届く拓翔のメッセージに、私の心は自然と明るくなる。お互いの気持ちを確認し合ってから、彼のメッセージひとつひとつが、まるで愛の言葉のように感じられるようになった。ハンドルネームじゃない、本当の名前で呼ばれるのも、くすぐったいくらいに胸をキュンとさせてくれる。
「おはよう、拓翔。今日も一日よろしくね」
『こちらこそ。今日も紀子と話せるのが嬉しいよ』
学校への道のりも、以前より更に軽やかに感じられる。胸の奥で温かい気持ちが灯っているからだろうか。
でもやっぱり、教卓の前に立つ日直の時間になると、みんなの視線が気になってしまう。クラスメイトたちの目が、私の顔を見て笑っているような気がして、下を向いてしまう。昨日、スマホを取り上げられて注目されたから、余計にそう感じている。
『紀子、大丈夫? 今日は元気がないみたいだけど』
昼休みに届いた拓翔のメッセージに、私は素直に返事を打った。
「今日は日直だったんだけど、やっぱり、人前に出るのが怖くて……みんなが私を笑っている気がして不安になるんだ」
『無理しないで。君は君のペースで大丈夫だから。辛いときや悲しいときは、いつでも僕に話して』
この優しさ。私は本当に拓翔に恋をしてよかったと思う。
大丈夫だと思える気がしてくる。「あのね、拓翔は、私と会いたいって思わない?」
ふと、そんな質問を送ってしまった。何度もこのことで、不安がよぎってしまうから。
『正直に言うと、会いたいと思うよ。今すぐにでも』
その返事に、私の心臓が止まりそうになった。やっぱり、そう思っているんだ、という不安と、私のせいで会えないという罪悪感が押し寄せてくる。
『でも、紀子が嫌がることはしたくない。それに……』
「それに?」
『僕たちは、会わなくても十分に気持ちが通じ合ってると思うから』
その言葉に、私は目を見開いた。
「本当にそう思う?」
『うん、本当だよ。今だって、紀子が不安になってることがわかる。君の文章から、君の心の動きが手に取るようにわかるんだ』
確かに、そうかもしれない。私にも拓翔の気持ちが、メッセージの向こうから伝わってくる。
『昨日の夜、君が「今日は星がきれいだね」って言ったとき、僕も同じ空を見上げた。同じ星空を見て、同じ気持ちになってる。それって、すごいことじゃない?』
私は思わず窓の外を見上げた。今日は曇り空だったけれど、その向こうに拓翔がいる。同じ空の下に。
「そうだね……確かにすごいことかも」
『会えなくても、心は繋がってる。僕はそれで十分だよ』
その夜、私たちはいつもより長い時間、メッセージを送り合った。
『紀子、君はどう思う? 俺たちの関係について』
「正直に言うと……最初は寂しかった。普通のカップルみたいに手を繋いだり、一緒にいる時間を過ごしたりできないから。こんな私が恋人なんて、拓翔にも申し訳ないって」
『今は?』
「今は……これでいいのかもしれないって思ってる」
『本当に?』
「うん。だって、拓翔となら、会わなくても毎日幸せを感じられるから」
しばらく間があって、拓翔からの返事が届いた。
『紀子、僕たち、正式に「会わない恋人」になろうか』
「会わない恋人」
その言葉が、私の心に深く響いた。以前から思っていた。会わなくても大丈夫な、大切な関係。
「それって……」
『僕たちだけの恋愛の形。会わなくても、お互いを愛し合っている関係。世間の常識とは違うかもしれないけど、僕たちにとってはこれが一番自然な形なんじゃないかな』
私は長い間考えた。本当にそれでいいのだろうか。私の勝手な思いだけで、拓翔を振り回してしまっている罪悪感もある。でも、拓翔の言葉を読んでいると、不思議と心が軽くなった。
「でも、いつか会いたくなったら?」
『そのときは……紀子が会いたいって思ったときに会えばいい』
「私が会いたいって思うまで、待ってくれるの?」
『何年でも待つよ。十年でも、二十年でも』
その言葉に、私の涙が止まらなくなった。
「そんなに待たせたら申し訳ない……」
『謝らないで。僕が勝手に待ちたいって思うんだから』
「拓翔……」
『紀子、君は自分が思ってるより、ずっと素敵な人だよ。いつか君が自分の美しさに気づく日が来ると信じてる』
私の美しさ。そんなものがあるのだろうか。鏡の中の私は変わらず醜いのに。
『そのときが来るまで、僕は紀子を愛し続ける。会わない恋人として』
「私も……拓翔を愛し続ける。会わない恋人として」
『じゃあ、決まりだね』
「うん、決まり……拓翔、本当にありがとう」
こうして、私たちは正式に「会わない恋人」になった。
世間の人たちから見たら、きっと理解されない関係かもしれない。でも、私たちにとっては、これが最も自然で、最も純粋な愛の形だった。
『紀子、愛してる』
「私も愛してる、拓翔」
画面の向こうの拓翔の温かさを感じながら、私は心から思った。
私たちは会わなくても、十分に幸せになれる。お互いの心だけで、こんなにも深く愛し合えるのだから。
「明日もよろしくね、私の会わない恋人さん」
『こちらこそ、僕の会わない恋人さん』
私たちの新しい関係が、今日から始まる。きっと、これまで以上に深い絆で結ばれていくのだろう。
このとき、私はまだ知らなかった。明日、この幸せな関係が大きく揺らぐことになるなんて。
桧葉彩音の視線が、私のスマホに注がれていることを。
* 一方そのころ、拓翔は自分の部屋でスマホを見つめていた。「やっぱり会うのは嫌そうだな……」
彼は小さくつぶやいた。正直に言えば、紀子に会いたい気持ちは日に日に強くなっている。
でも、それ以上に大切なのは、紀子が安心して自分を愛してくれること。彼女が自分らしくいられる関係を築くこと。「いつか会える日が来るといいな」
拓翔は窓の外を見上げた。同じ空の下に紀子がいる。それだけで、今は充分だった。
「紀子、君が笑顔で会いたいと思える日が来るまで、僕は待ってるから」
静かな夜の中で、拓翔の決意は固まっていた。
スマホの画面を見つめながら、私は震える指で文字を打ち続けていた。もう何時間も、この一通のメッセージを送ることができずにいる。「拓翔へ。これが最後のメッセージになります」 削除して、また打ち直す。何度繰り返しただろうか。でも、もう私は決めていた。この関係を終わらせると。 昨日から、拓翔は必死に私を慰めようとしてくれている。『写真を見たけど、紀子は僕が思っていた通りの優しい人だよ』『容姿なんて関係ない、紀子の心が好きなんだ』『今度こそ、直接会って話そう』と。 優しい言葉の数々。きっと、彼は本当にそう思ってくれているのだろう。でも、その優しさが、逆に私の心をえぐるのだ。 私は醜い。それは紛れもない事実。鏡を見るたびに、自分でも嫌になるほどの容貌。そんな私を見て、本当になにも感じないなんてことがあるだろうか。きっと、拓翔は優しいから、私を傷つけまいと嘘をついてくれているに違いない。「拓翔、今まで本当にありがとう。拓翔と話してきた時間は、私にとって宝物でした。でも、もうこれで終わりにします」 送信ボタンに指を置いたまま、動けない。これを送れば、もう二度と拓翔と話すことはできない。この数カ月間、私の心の支えだった彼との関係が、完全に終わってしまう。 けれど、あんなことがあった以上、もう続けることはできない。現実を知った今、このままでは私たちの関係は嘘になってしまう。 私の指が、送信ボタンをタップした。 震える指で、続きの文字を打つ。「会わない恋人なんて、やっぱり無理だったんです。私たちは画面の向こうの存在のままでいるべきでした。リアルな私を知ってしまった今、拓翔が私に向ける優しさは同情でしかありません」 涙が画面に落ちて、文字が滲む。「私は、あなたに同情されるのが辛いんです。本当の恋人同士だったら、こんなことで関係が変わったりしないはず。でも私たちは違う。画面越しの、美しい幻想の中でしか成り立たない関係だったんです」 ここで一度手を止める。本当にこれでいいのだろうか。拓翔の気持ちを信じてみることはできないのだろうか。 何度考えても無理だ。彩音
翌日の朝、私は昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。 拓翔との電話。お互いの愛の告白。改めて、恋人として付き合っていけるという現実。 すべてが信じられないほど美しくて、温かい。 学校に向かう道のりで、私は何度もスマホを確認した。拓翔からの『紀子、おはよう。愛してる』というメッセージが、本当にそこにあった。「おはよう、拓翔。私も愛してる」 返信を送ると、すぐに返事が来た。『今日も一日頑張ろうね。紀子がいると思うだけで、なんでも乗り越えられる』 その言葉に、私の心は温かくなったのと同時に、不安もまた大きくなった。 教室に入ると、昨日のことを思い出して足がすくんだ。彩音はもういつものように席に座っていて、私を見ると意味深な笑みを浮かべた。「おはよう、神林さん」 彩音の声は昨日と変わらず甘い。でも、その目には昨日と同じ冷たい光があった。「昨日はごめんなさいね。ちょっとやりすぎちゃったかな?」 彩音の謝罪は、心がこもっていなかった。私は彼女を無視して自分の席に向かった。 休み時間になるたびに、私はいつものように、こっそり拓翔とメッセージを交換した。昨日、お互いの気持ちを確認し合った。そう思うだけで、胸がドキドキした。『紀子、大丈夫? 昨日のこと、学校でなにか言われてない?』 拓翔の心配そうなメッセージに、私は少し罪悪感を覚えた。「大丈夫。拓翔がいるから」 本当は大丈夫じゃなかった。今日は彩音になにもされていないけれど、クラスメイトたちの視線が気になって仕方がなかった。昨日のことで、私を変な目で見ている人もいる。 昼休み、拓翔から電話がかかってきた。私は人目のない場所を探して、階段の踊り場で電話に出た。『紀子?』「うん」『声を聞けて安心した。今日は大丈夫?』「大丈夫」 私は嘘をついた。本当は辛くて仕方がなかった。クラス中が敵のように思えるほどなのに。『本当に? なんだか元気がないみたいだけ
僕は部屋で一人、スマホの画面を見つめていた。 数時間前に送られてきた写真。そして、そのあとに続いた紀子からのメッセージ。『ごめんなさい』『これが、本当の私です』 写真の中の少女は、確かに一般的な美人とは言えなかった。でも、僕が感じたのは失望ではなく、むしろ安堵だった。 なぜなら、僕自身も容姿にコンプレックスを抱えていたから。小柄で、クラスメイトからは「チビ」とからかわれ続けてきた。 紀子が美人だったら、きっと僕なんかには見向きもしなかっただろう、そう思うとホッとしている自分がいる。 でも、それ以上に僕の心を動かしたのは、紀子の勇気だった。 あんなにも自分の容姿を嫌がって、会うことすら躊躇っていたのに。 自分の一番見せたくないだろう部分を、僕に見せてくれた。それがどれほど辛いことか、僕には痛いほどわかる。 それなのに、紀子はどうして突然、写真を送ってきたんだろう。「紀子、話そう」 僕はメッセージを送った。返事は来ない。 もう一度、メッセージを送る。「紀子、今から電話で話さない?」 僕は思い切って提案した。今まで文字でしかやり取りしたことがなかったけれど、今はどうしても声が聞きたかった。 日曜日に電話をする約束をしている。だけど、その前にどうしても話したい。 スマホが震え、紀子から返信が届いた。『ごめんなさい……私は拓翔に嘘をついてた』「そのこと。ちゃんと話そう。二人で」 しばらくして、チャットアプリの着信音が鳴った。僕は慌てて電話に出る。「もしもし」『あ、えっと……』 紀子の声は小さくて、震えていた。でも、とても優しい響きだった。「紀子?」『うん』「初めて声を聞けて、嬉しい」 文字とは違う言葉のやり取りに、胸の奥が温かくなってくる。 電話越しに、小さなすすり泣きが聞こえた。『拓翔、本当にごめんなさい』「なんで謝るの?」
「やめてよ……」 私の声は掠れていた。彩音の最後の言葉が、私の心臓を鷲掴みにしている。「本当のことを教えてあげない?」 その言葉の意味を理解した瞬間、私の世界が真っ暗になった。 彩音は私が醜いということを、拓翔に伝えようとしている。「お願いだからやめて! なんでそんな酷いことをするの!」 私は彩音に向かって手を伸ばした。でも、彩音は私のスマホを高く掲げて、私の手の届かないところに持っていく。「神林さん、そんなに必死にならなくてもいいじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷酷だった。「酷いことだなんて、相手の人も知る権利があるでしょ? 付き合ってる人がどんな顔なのか」「付き合ってない!」 私は叫んだ。でも、それは嘘だった。少なくとも私の心の中では、今は拓翔と恋人同士なんだから。「へえ、そうなの? じゃあ、なおさら問題ないじゃない?」 彩音は私のスマホの画面を操作し始めた。私は血の気が引いていくのを感じた。「なに……してるの?」「写真を撮るのよ。神林さんの可愛い顔をね」 その瞬間、私は理解した。彩音がなにをしようとしているのかを。「だめ!」 私は彩音に飛びかかった。でも、彩音は素早く身をかわした。私はバランスを崩して、机に手をついた。「みんな、手伝って」 彩音がクラスメイトたちに向かって言った。彩音と仲が良い何人かの生徒が私を取り囲む。私は逃げ場を失った。「もういい加減にして! スマホを返してったら!」 私は涙声で懇願した。でも、彩音は聞く耳を持たなかった。「はい、こっち向いて」 彩音は私のスマホのカメラを私に向けた。私は必死に顔を隠そうとしたけれど、クラスメイトたちが私の手を押さえた。「神林さん、そんなに嫌がることないじゃない。ちょっと写真を撮るだけよ」 彩音の声は、まるで私のためを思っているかのよ
翌日、昼休みの教室で、私は一人で弁当を食べていた。いつものように隅っこの席で、できるだけ目立たないように身を縮めて。「ねえ、神林さん」 突然声をかけられて、私は箸を持つ手を止めた。振り返ると、またしても彩音が立っていた。その美しい顔に、いつもの意地悪な笑みを浮かべて。「なに?」 私の声は震えていた。昨日のことがあって、こんなふうに話しかけられても、警戒心しか湧いてこない。「昨日からみんな、ずっと気にしてるんだけど、神林さんってネットの恋人とメッセージのやり取りをしてるでしょ?」 そう言って、彩音は私の隣の席に勝手に座った。周りのクラスメイトたちがこちらを見ている。私は急いでスマホを隠そうとしたけれど、その手を掴まれた。「みんな、内容が気になるんだって」 彩音の声には、悪意をまとった響きがあった。クラスメイトたちのほとんどが、私と彩音のやり取りを見ている。「そんな……みんなが気にするようなこと……なにもないから」「へえ、そうなんだ」 彩音は立ち上がると、私の後ろに回り込んだ。そして、突然私の肩に手を置いた。「でも、今日も授業中こっそり見てたでしょ? 今度、先生にバレたら大変だよ?」 その瞬間、彩音の手が私のスマホに向かって伸びた。私は反射的にスマホを胸に抱え込む。「触らないで!」「なに隠してるの? そんなに必死になることないじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷たかった。私は立ち上がって彩音から距離を取ろうとしたけれど、彩音は諦めなかった。「みんな、神林さんがチャットのやり取り、見せてくれるみたいよ」 彩音の声が教室に響くと、周りのクラスメイトたちがざわめき始めた。私は顔が真っ赤になるのを感じた。「やめてって、何度も頼んでるじゃないですか」 私の声は涙声になっていた。でも、彩音は止まらない。「そんなに隠すなんて、よっぽど恥ずかしいメッセージを送ってるとか?」
一夜明けて、私は重い足取りで学校に向かった。 昨夜は一睡もできなかった。彩音に秘密を知られてしまったことが頭から離れず、拓翔とのメッセージのやり取りも、いつもの楽しさを感じられなかった。『紀子、今日は大丈夫? 僕はずっと君のことを考えてた』 朝一番の拓翔のメッセージに、私の心は少しだけ温かくなったけれど、不安のほうが大きかった。「正直、怖い。桧葉さんがなにをするかわからないから……」『なにかできることはないか、って考えてるんだけど、いい案が思いつかなくて。話を聞いてあげることしかできなくて、本当にごめん』「拓翔が謝る必要なんてないよ。考えてくれていることが嬉しい」『もしなにかあったら、すぐに連絡して。僕もなにか方法を考えるから。一人で抱え込まないで。いいね?』 拓翔の優しさが、今は逆に辛い。彼にはなにもできないことがわかっているから。それでも拓翔を安心させたくて「うん」と返事を送った。 教室に入ると、彩音はいつものように友だちと楽しそうに話していた。私と目が合うと、彼女はにっこりと笑って手を振った。 その笑顔が、私には悪魔の微笑みに見えた。 一時間目の授業が終わると、彩音が私の席にやってきた。「おはよう、神林さん。今日も彼氏とメッセージしてるの?」 小さな声だったが、その言葉に私は凍りついた。クラスの誰かに聞かれたらどうしよう。「そんなの……桧葉さんは気にしないでください」「昨日はごめんね。でも、本当に面白いものを見せてもらったわ」 彩音の目が意地悪く光る。「お願い、誰にも言わないで。お願いだから」「う~ん、どうしようかなぁ……」 彩音は指を唇に当てて、わざとらしく考えるポーズをした。 意地悪なことを言っているのに、そんな顔も仕草も綺麗に見える。「それにしても、神林さんって意外と積極的なのね。『愛してる』なんて、恥ずかしいセリフをメッセージで送り合うなん